~ある日本人地盤技術者のシンガポール奮闘記~ 基礎地盤コンサルタンツ株式会社 シンガポール支社 野中 毅
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1.はじめに
シンガポールは東南アジア諸国の中でも、最も経済的に発展している国の一つである。筆者が2000年にシンガポールに赴任してから、もうすぐ13年の月日が過ぎようとしているが、この間にGDPは約1.8倍、人口も約30%増加している(図1)。
図1 シンガポールの人口とGDPの推移
シンガポール人の合計特殊出生率は1.20(2011年度)程度であり、日本のそれ(1.39)よりも低いが、近隣諸国から高学歴、高スキルな人材の出稼ぎや移民を募り、人口増加と経済成長を達成している。またそれを支えるために、埋立による国土の拡大、地下鉄や高速道路網からなる交通インフラの整備、地域のハブ機能を強化するための空港、港湾の整備を、国の成長戦略に従って計画的に進めている。
シンガポールの国内建設市場における日系ゼネコンのシェアは、例年20%程度あり、シンガポールのあちこちで、日系ゼネコンの旗印が見られ、またその評価は高い。一方日系建設コンサルタントであるが、シンガポールで業務を行なっているものは、弊社を除いて皆無である。シンガポールでは非常に透明性の高い入札システムを採用しており、技術および価格競争に勝つことが出来れば、新規参入者でもプロジェクトを比較的容易に受注可能であり、もっと多くの日系建設コンサルタントが進出すればと願っている。ここでは、筆者が2008年から関わっている、Marina Coastal Expressway Projectの仮設山留構造物の設計を例にしながら、シンガポールでの工事設計の進め方を、シンガポールの技術士制度と設計および施工認証制度を中心に紹介したい。
2.シンガポールの技術士試験制度
シンガポール技術士(Professional Engineer, PE)の資格を得るには、日本のように第一次試験(筆記)および第二次試験(面接)に合格する必要がある。第一次試験の受験資格は、認定された教育機関を卒業し、かつ4年以上の実務経験が求められる。認定された教育機関であるが、日本の場合、旧帝大、神戸大、千葉大、東工大、広島大、横浜国大が認定されている。これに加え、近年では日本技術者教育認定機構(JABEE)も認定された。なお第一次試験時には参考書等の持ち込みが認められており、知識を試すというよりは、問題解決能力を見極めることを主眼に置いていると思われる。建設に関するシンガポールの技術士は日本のように細かい分野区分はなく、Civil(土木)とGeo(地盤)の2種類しかない。PE(Civil)は土木全般をカバーする。PE(Geo)はPE(Civil)の上位であり、掘削深さが6mを越える場合には、仮設、本設ともにPE(Geo)が地盤に関する設計を行うことが要求される。基本的には、PE(Civil)を取得し、かつ実務経験が7年以上、地盤工学に関する業務経験が5年以上あればPE(Geo)の受験資格が得られ、試験(筆記)に合格する、もしくは地盤工学関係の修士または博士号を持ち、シンガポール技術士会(PE Board)にその能力を認められれば、晴れてPE(Geo)となる。ちなみに日本の技術士資格やAPECエンジニア資格は、残念ながらシンガポールにおいて何ら効力を持たない。
3.設計および施工認証制度と技術士の責任
設計は資格設計技術者(Design Qualified Person, QPD)によって行われる。掘削深さが6mを越える場合には、QPD(Geo)が地盤工学に関する部分の設計を行う。QPDおよびQPD(Geo)はその設計に全責任を負い、それぞれPE(Civil)、PE(Geo)の資格が要求される。QPDおよびQPD(Geo)による設計は、第三者となる資格照査技術者(Accredited Checker、AC)およびAC(Geo)によりチェックされる。ACおよびAC(Geo)はそのチェック内容にある一定の責任を負う。またそれぞれPE(Civil)、PE(Geo)の資格と10年以上の経験が要求される。ACによってチェックされた設計は政府建築監督庁(Building Control Authority, BCA)に提出され、その審査を受ける。BCAに設計が認可された後に、施工者が施工を行う(図2)。その際、施工管理者(Supervision Qualified Person、QPS)およびQPS(Geo)は施工が設計通りに行われているか管理を行う。QPSおよびQPS(Geo)には、それぞれPE(Civil)、PE(Geo)の資格が要求される。表1に各資格技術者の名称と役割をまとめる。
図2 設計承認フロー
表1 各適格者の名称と役割
名称 |
略称 |
必要資格 |
役割 |
Design Qualified Person |
QPD |
PE |
設計者でありその設計に全責任を負う。 |
Design Qualified Person for Geotechnical |
QPD(Geo) |
PE(Geo) |
|
Supervision Qualified Person |
QPS |
PE |
施工者が設計通りに施工を行なっているか監視する。また工事を止める権限を持つ。 |
Supervision Qualified Person for Geotechnical |
QPD(Geo) |
PE(Geo) |
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Accredited Checker |
AC |
PE およびBCAへの登録 |
設計適格者の作成した設計の妥当性を審査する。また工事を止める権限を持つ。 |
Accredited Checker for Geotechnical |
AC(Geo) |
PE(Geo)および BCA への登録 |
4.Marina Coastal Expressway Projectの場合
Marina Coastal Expresswayは日本でも知られているマリナベイサンズ(写真1)の側を通る全長約 5kmの地下高速道路である。
写真1 マリナベイサンズ
工事発注者は国土交通局Land Transport Authority (LTA)で、C481、 C482、C483、C485、C486およびC487の5工区からなる。発注形式は設計施工方式(Design Build)であり、どの工区も基本的には開削工法(掘削深さは15m程度)でトンネル躯体を建設している。筆者はC487工区に従事し、仮設工事のQPDとQPD(Geo)の下で仮設山留構造物の設計や計測計画を担当した。C487の施工者は日系建設会社と韓国系建設会社の共同事業体(JV)であり、日系建設会社がトンネル本体および付帯設備工事を、韓国系建設会社が掘削工事を担当した。シンガポールでは仮設山留構造物のことをERSS(Earth Retaining / Stabilizing Structure)と呼ぶが、工事受注直後に始まったERSSの設計はかなりの時間を費やすことになった。その理由としては、設計が承認されるまでに、施工者、発注者、AC、BCAの承認を得る必要があることにあった。
1)設計土質パラメータ地盤設計手法
このプロジェクトでは発注者からGIBR(Geotechnical Interpretative Baseline Report)が提供されている。GIBRは既存地盤調査データを整理し、設計土質定数および想定される地盤リスクをまとめたものである。契約上、設計者はGIBRの設計土質定数をそのままもしくはそれよりも安全側の土質定数を用いることを要求される。追加調査等により高い土質定数が証明されたとしても、設計土質定数の変更は容易ではない。設計施工方式であるため、設計土質定数の変更が契約条件の変更に当たるためである。
現在、シンガポールでの掘削解析はFEM解析が主流である。ちなみにシンガポールで使用されているFEMソフトはオランダPLAXIS社製の「PLAXIS」が、その使い勝手の良さから圧倒的なシェアを誇っている。反面、その使い勝手の良さが災いし、理解度の低い技術者による、出力結果は美しいが、その結果の妥当性は眉唾といったものを見る機会は少なくない。
2)施工者による承認
韓国系建設会社の掘削山留担当者は、現地の慣行(Local Practice)に疎く、自分たちの方法を押し通そうとする事が多かった。例を挙げると、シンガポールでは山留設計において必ずFEMによる変形解析を行い、土留壁の変位量がBCAの規定した値(掘削深さの0.5~1.0%)以内に収まるように掘削方法や部材のサイズを選定するが、韓国系建設会社の掘削山留担当者は、「近接構造物もないのだから、許容変位量はもっと大きくても良いはず。」と主張してきた。そもそもBCAの規定値は、死傷者7名を出した2004年のニコールハイウェイ掘削事故の後に、二度とこのような惨事を許さないというBCAの固い決意から生まれたもので、かなり安全側な許容値であると考えられる。変形解析によって予想される土留壁の変形量がこの既定値以内であれば、比較的容易にその審査をパスすることができるが、予想値が規定値を越える場合には、より長い審査期間や追加の詳細検討等が要求される事が多い。施工者との協議の結果、時間を優先することにし、山留壁変位量はBCAの規定値に収める設計で合意した。プロジェクトが進むに連れて、韓国系建設会社も現地の慣行に従わなければ、プロジェクトが円滑に進まないことを理解し、プロジェクトの進捗速度は大きく改善した。「郷に入りては郷に従え」の格言の重みを感じる。
3)発注者による承認
QPDによる設計が発注者の要求事項を満たしているか、発注者(LTA)によって審査が行われる。LTAはシンガポールの交通インフラの計画、設計、発注、整備を所管しており、シンガポールで最も体系だった設計、施工指針を持つ機関である。シンガポールで用いられる主な設計基準として、英国基準(現在ユーロコードに移行中)、シンガポール基準、LTA設計基準が挙げられるが、他の基準についてもQPDが妥当だと考えれば採用される例は多く、技術者の裁量に任される部分が大きい。このため、LTAの設計基準に従って設計を行なっても、LTAの技術者に却下されるといった事態も起こった。仕様書に、「LTA技術者の同意があれば」という付則があるからである。
4)ACによる審査
施工者および発注者に承認された設計は、ACによって審査される。ACはQPDが作成した設計図面と地盤データ等の基礎データを基に、独自の計算(QPDと同じ方法である必要はない)を行い、設計図面の妥当性を審査する。本プロジェクトでは、ACは発注者(LTA)に雇われているが、施工者に雇われる場合もある。
5)BCAによる審査
ACに承認された設計は政府建築監督庁BCAに提出される。BCAへの提出は、BCAが運営するCORENETシステムと呼ばれる電子提出システムを通して行われる。その手順は、まずACによって承認された設計図書はPDF化され、それにQPD、QPD(Geo)、AC、AC(Geo)が順番にEncryptionと呼ばれる暗号化された電子署名を行う。電子署名された設計図書はQPDによってCORENETサーバーにアップロードされる。BCAの審査官はアップロードされた設計図書の審査を行い、通常2週間以内に審査結果がQPDに通知される。BCA側では、各プロジェクトに対し審査官を任命するが、担当審査官の技術的なバックグラウンドが異なるため、時に審査に長時間を要すことや追加の詳細検討を求められることがある。
6)QPSによる施工管理
BCAによって承認された設計図面に従って、QPSの管理の元、施工者による施工が行われる。本プロジェクトのような大規模プロジェクトでは、QPSは発注者に雇われることが多いが、比較的小規模なプロジェクトではQPDが兼任する場合も多い。
BCAは設計図面の中に、計測計画と管理基準値を明記することを要求している。管理基準値では、山留壁の変位や切梁反力といったERSSの安定に直接関連する計測については警戒値(Alert Level)および工事停止値(Work Suspension Level)を設定することが 求められている。通常、警戒値は工事停止値の70%、工事停止値はFEMから得られた予測値(Predetermine Level)と同値とするのが一般的である。地表面沈下量や、地下水位、間隙水圧といったERSSの安定に直接関連しない計測に関しては、管理基準値としては予測値のみを示す場合が多いが、近接構造物の安定等に関連する場合には警戒値と工事停止値を設定する。施工時に計測値が警戒値を超えた場合には、QPSはすみやかにBCAに報告する義務を負う。工事停止値に達した場合、QPSは工事を停止させる権限を持つ。工事停止後は、QPDが設計再検討および変更を行い、それについてACおよびBCAの承認が得られれば、工事再開となる。また掘削作業は範囲および深度がブロック化されており、各ブロックの掘削には、QPSおよびACの許可を得る必要がある。QPSおよびACは当該ブロックの計測値を考慮しながら、掘削の許可を与え、必要であれば掘削作業を停止させる権限を持つ。
2004年のニコールハイウェイ掘削事故までは、計測機器の設置と計測は施工者の責任で行われていたが、それでは計測の独立性が保てないとの意見から、現在、大規模プロジェクトでは発注者が直接計測会社を雇う形態が主流である。
5.最後に
以上、シンガポールの技術士制度および施工認証制度について紹介を行った。基本的にシンガポールの技術士は日本の技術士に比べ高い責任を負っているが、それに応じた高い報酬を得ており、技術者の地位向上という面では貢献していると思われる。反面、責任を回避するために、しばしば過大な設計が行われおり、建設コストを押し上げる要因の一つとなっていると感じられる。